レヴァン練馬は私の原点:マッスル北村との思い出を語る

レヴァン練馬でのマッスル北村との思い出を語る

かつて日本のボディビル界に燦然と輝いた「マッスル北村」。
彼を語る上で欠かせない場所が、東武東上線東武練馬駅そばのレヴァン練馬(現在ティップネス)にありました。
この記事は、伝説的なボディビルダー、マッスル北村と、彼が日夜トレーニングに励んだレヴァン練馬での貴重な体験と、そこから得られた学びを深く掘り下げていきます。
単なるジムの思い出にとどまらない、マッスル北村の人間性や、当時のトレーニング文化、そして筋トレに対する哲学が、私の個人的な視点を通して鮮やかに蘇ります。
レヴァン練馬という場所が、いかに多くのトレーニーにとって特別な存在であり、マッスル北村という存在がいかに彼らに影響を与えたのか、その真髄に迫ります。

記事のポイント

  • マッスル北村氏がレヴァン練馬でどのようにトレーニングしていたか
  • レヴァン練馬が当時のボディビル界でどのような位置づけのジムだったか
  • マッスル北村氏の人柄や周囲との交流について
  • 著者のマッスル北村氏との個人的な思い出や彼からの影響
目次

マッスル北村とのレヴァン練馬での出会いからその伝説の継承まで

私とマッスル北村さんとの出会いは、19歳の頃にさかのぼります。
当時、私は「タダで筋トレができる」という魅力に惹かれ、ティップトップ大山というスポーツクラブのオープニングスタッフに応募しました。
筋トレ歴は中学2年生の時にベンチプレスを始めたのがきっかけで、高校の柔道部を経て、卒業後は東武練馬の出版健保すこやかプラザでトレーニングを続けていました。
ティップトップで働く中で、遠藤光男ジム出身のチーフトレーナーY沼さんと、レヴァン練馬店の立ち上げからバイトをしていた副チーフH越さんに出会い、それまで自己流だったトレーニングに初めて本格的な理論が加わりました。


レヴァン練馬での衝撃と学び

ティップトップで働き始めて1年ほど経ったある日、休憩所で「アイアンマン」という雑誌を読んでいた際に、その誌面に写る人物の筋肉に感銘を受け、「すごい筋肉ですね~」とH越さんに漏らしました。
するとH越さんは「その人、東武練馬のレヴァンで筋トレしているよ。今度行ってみる?」と私を誘ってくれました。

後日、H越さんと一緒にレヴァンを見学に訪れた私は、その光景に度肝を抜かれました。
ティップトップでベンチプレス120kgを挙げ、天狗になっていた私の心は、そこがまさに「つわものぞろい」の場所であることを悟り、一瞬にして打ち砕かれました。
中でも特に印象的だったのは、空手家のK藤さんでした。
彼は130kg以上のベンチプレスを補助なしで軽々と挙げており、その姿に驚いて思わず「何されている方ですか?」と尋ねてしまいました。
K藤さんは笑顔で多くを語りませんでしたが、後に空手界の有名選手であることを知りました。
レヴァンには他にも、有名なアスリートや巨大な体格のトレーニーが数多く在籍しており、この環境で学びたいという強い思いから、私はレヴァンに入社することを決めました。
おそらく、動画でマッスル北村さんの思い出を語られているパーソナルトレーナーのゆうじさんが退職された直後だったため、欠員が出たことで採用されたのだと思います。

YouTube>>マッスル北村さんとの思い出。僕の原点時代の話。僕が知るマッスル北村さん伝説。


レヴァン練馬でのアルバイト時代

大学が夜間だったこともあり、レヴァンでは夕方5時頃まで勤務していました。
ティップトップ時代にはプール監視の業務もありましたが、レヴァンではマシンジム専属でした。
主な仕事は、新規入会者の初回指導、継続を促すための初心者会員への声掛け、清掃、フィットネス関連の新聞切り抜き、そして上級者の3モアレップのサポートです。

新規入会者の方には、5種類の種目をこなすプログラムを説明するのですが、その際に「筋トレするとあんな体になっちゃうの?君ぐらいになればいいんだよ」と、マッスル北村さんを指さして言われることが度々ありました。

私としては肉体的限界に挑戦しているつもりでしたが、お客様の誤解を解くため「あの方はプロのボディービルダーなので、どんなに鍛えても同じようにはなりませんよ」と、顔を引きつらせながら答えていたのを覚えています。

この頃のボディービルダーはオフシーズンに体重を増やす「増量期」を設けており、北村さんもオフの時期は120kg程度あったため、決して「かっこいい」というよりは「団子丸」といった体型でした。
増量期を設けたコンテストビルダーの大会出場は年に1回か2年に1度ぐらいの頻度でした。


アルバイトから会員へ、そして新たな出会い

低賃金でもタダで筋トレができるということが働く目的でしたが、レヴァンでは度々人手不足で、シフト以外の日の勤務を求められることがありました。
それを断って筋トレに励んでいたため、「使えないバイト」というレッテルを貼られてしまったようです。
そこで、勤務開始から1年ほど経った頃、この素晴らしい環境ならいっそ会員になって堂々と筋トレした方が良いのではないかと考え、退職して会員になりました。
大学4年生からは仕事はせず、就職活動の合間の自由な時間に筋トレに打ち込むことができました。

筋トレが終わると、神奈川大会で2位の実績を持ち、ミスター東京に出場していた消防士のO倉さんとラウンジで軽食を共にする機会が増えました。
O倉さんは、北村さんに「東大でボディービルやっていても食えないぞ」とアドバイスした人物です。
その後、医大に入り直したという話を聞くと、彼の奇人ぶり(天才ぶり)がよく分かります。

ある時、ビジター利用で合同トレーニングをした親友F君とO倉さんの3人でラウンジで軽食をとっていると、O倉さんが「就職はどうするんだ。消防はいいぞ。警察だと恨まれるが消防は感謝されるからな。トレーニングもしたい放題だ」と熱弁をふるいました。
友人はその言葉にすっかり感化され、消防士になりました。
最近、施術を受けに来てくれたのですが、レスキュー隊引退後は山岳救助が主な任務になっているそうです。
このO倉さんは、私がレヴァンに在籍中はミスター東京で予選通過ができていませんでしたが、レヴァンを追い出された後にゴールドジムに移り、3位に入ったという噂を耳にしました(WEBでは確認できませんでしたが)。


短期間の鶴瀬エスパルでの経験と新宿オアシス時代

大学4年の後半から半年ほど、新しい刺激を求めて鶴瀬にあったエスパルというスポーツクラブに入会しました。
ここにはS坂さんという実績のあるボディービルダーがトレーナーとして在籍しており、「死ぬ気でやるならチャンピオンにしてやるぞ」と言われましたが、根性なしの私はお断りしました。
このジムには、ドラッグ使用で失格になった選手がトレーナーとして在籍しており、それが後に横浜中華街岩間事件へと繋がったようです。

友人F君は消防士になりましたが、私は医療機器の会社から内定をもらいました。
しかし、サラリーマンになると筋トレがしにくくなるのではと悩み、ティップトップ時代に「君は年寄りに優しいから鍼灸師向きだよ」と言ってくれた、日中優雅にトレーニングしていた鍼灸師の会員さんに相談に行きました。
この頃、日曜日に所沢航空公園で行っていたアメリカンフットボールで頸椎を痛め、手に痺れが発生し後ろを振り向くことができない状態だったため、鍼灸治療で治してもらっていました。
先生に就職活動の相談すると「推薦試験があるので今だったら間に合う!」と言われ、東京医療専門学校の入学試験を申し込み、内定してくれた会社には丁重にお断りしました。

鍼灸学校に入学すると、同期に東京体育館のチーフトレーナーKさんがいました。「うちで働けよ」と誘われましたが、内規を確認すると体育大学や体育専門学校を卒業していないと応募できないと言われ断念しました。
そんな折、歌舞伎町に東急スポーツクラブオアシスの新店舗ができることを知り、面接を受け合格しました。
専門学生時代はオアシスでバイトをし、筋トレはレヴァン練馬で行っていました。
オアシスでは筋トレ経験者ということで、主にフリーウェイトエリアを担当しました。

ここで勤務していた時、ジム内のモニターに映ったニュースで「ボディビルダーの岩間が横浜中華街で警察官を殺害し逮捕」という衝撃的なニュースが飛び込んできました。
レヴァンでは岩間さんがステロイドの売人だという噂がありました。
この事件の後、「レヴァンに行けば薬が手に入る」という噂が流れ、北村さんに「売ってくれ」と懇願する変人が多く押し寄せ、北村さんは困っていました。
「僕に相談せずMちゃんに聞いてよ」と言ったとか言わなかったとかで、Mちゃんは「なんで俺の名前出すんだ。あんにゃろぶっ○してやる」と怒っていたのを覚えています。


レヴァン練馬退会後のマッスル北村

レヴァン東武練馬の閉鎖と筋トレの一時中断

レヴァン大泉学園店は経営状態が良好でしたが、練馬店はあまり思わしくなかったようです。
その理由の一つが、「ボディービルダーが多く雰囲気が悪い」というものでした。
そこで店舗が打ち出した奇策が、ビルダーを締め出す「100kg以上のベンチプレス禁止ルール」です。
ガチ勢の皆さんはとても怒っていましたが、「入会金を返金する」という異例の対応がなされたことにより、多くの会員がゴールドジムノース東京(大塚)に移籍しました。
私は治療院の開設準備で忙しくなってしまったため、1996年6月頃に筋トレを一旦辞めました。


マッスル北村の逝去、そして再開した筋トレ

開業した当初は「三日、三月、三年、3年持てば大丈夫」と言われていました。
過労死するつもりで3年間休みを取らず必死に働きました。
筋トレ界には「死ぬ気でやれよ、死なねえから」という格言があります。
実際に死ぬ気で働いてもそう簡単に死ぬことはありませんね。

その3年が過ぎた頃、サンシャイン60にあるエグザス(現コナミ)に入会し、筋トレを再開しました。
都民共済に加入するとゴールドジムの無料券が配られていたので、時々刺激を受けにノース東京に行って北村さんにお会いしていました。
筋トレを再開して1年ほど経ったある日、池袋駅前に見慣れたトミーカイラM30が路上駐車されていました。
この車の持ち主は、ティップトップ大山の副チーフ(その後レヴァン大泉社員)だったH越さんです。
しばらく車の脇で待っているとH越さんが戻ってきました。
そこで耳にしたのが、北村さん亡くなったよという衝撃の言葉でした。
H越さんは葬儀にも参列したそうで、詳しい経緯を教えてくださいました。
「死ぬ気でやれよ、死なねえから」という格言が崩れ、北村さんはまさしく伝説の人となってしまったのです。

北村さんは生前、「僕には時間が無い」と呟いていたそうです。
その意味は、筋トレで世界を目指すには若さが必要であり、日々老いていくことへの言葉だと思っていました。
10歳年下の私には「若いってうらやましいな~」とよく呟いていました。
まさか、「時間が無い」という意味が死を意味していたとは……。今でもとてもショックな思い出です。


マッスル北村さんのエピソードと変わらぬ人柄

1分22秒からのチェストフライがレヴァン練馬での撮影です

北村さんが今でも伝説のボディービルダーであり続ける理由は、誰に対しても優しいところだと思います。怒ったりイライラしている姿を見たことがありません。
私に対しても、更衣室でお会いすると「もう終わり?」「これから?」などと気さくに声をかけてくれました。
これは、私だけでなく、普通のフィットネス会員に対しても同様でした。

レヴァンには最大46kgのダンベルしかありませんでしたが、多くの会員さんが自転車のゴムチューブを持参し、ダンベルにくくりつけて高重量トレーニングを行っていました。
北村さんは70kg近いワンハンドダンベルショルダープレスの最中に、タクシードライバーのおじさんに話しかけられることが度々ありました。
そんな時でも嫌な顔一つせず、それどころかインターバルを無視して長時間質問に答えていました。

ラットプルダウンのマシンが壊れていることがよくありました。北村さんがダンベルをくくりつけるため、重さに耐えきれずカシメが外れることが原因でした。
ジムチーフのY木さんが毎回修理するのですが会員さんたちは「また北村さん?」と笑っていました。

さんまの何でもダービーという番組によく出演していたので、裏話もよく聞かせてもらいました。西武百貨店内の献血ルームで偶然一緒になったこともありました。新宿御苑の脇に黄色いシボレーカマロのオープンカーを発見「なんでここにいるんですか?」などと声をかけたこともあります。不思議と北村さんとはジム以外でもお会いしたのでした。

アイアンマンの動画にもあるように、北村さんはサポートを入れません。
ある時、200kgのスミスマシンベンチプレスで潰れている北村さんを発見しました。
慌てて重りを外そうとすると「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言い、そのままトレーニングを再開するのです。
限界まで追い込んで潰れた状態で回復を待っていたようでした。

北村さんは1部位のトレーニングを終えると、最上階のプールが見える休憩場所に一人で座っていることがよくありました。
ある時、何か食べているので近づいてみると、タッパーにプロテインの粉が入っていて、牛乳を入れて固めて食べていました。
笑顔でもぐもぐしながら何か話しているのですが、「ぼくね~、◎$♪×△¥○&?#$!」と、何を話しているのか分からない時が時々ありました。

北村さんがジムに来ているかどうかは、地下駐車場に黄色いシボレーカマロのオープンカーが停まっているかどうかで確認していました。
他の大きな体格の会員さんも北村さんの影響か?アメ車に乗っている人が多かったです。
隣に愛車サバンナRX-7(FC)を停めた時には、「オレ、北村さんとマブダチなんだぜ、くぅ~!」と武内イツキ君のように嬉しい気分になりました。

北村さんが練馬店で見かけなくなった場合、大泉学園店に行っていることがありました。
そのような場合、私も愛車HONDA-JIZZで大泉学園店に追っかけて行きました。
大泉学園店では、女性にマンツーマンで指導している姿をよく目にしました。誰だったのかは謎のままです。
とにかく、北村さんと同じ空間で筋トレできることは、私にとって大きな喜びでした。


筋トレ継続のモチベーションと健康への考察

北村さんはドーピング疑惑に対し「はめられた」と憤っていたと、レヴァンのベテラン会員さんは語っていました。
しかし、あれだけの肉体を作り上げるのに何らかの薬を使っていたのではないかという疑惑は、いまだに残っています。
一方、北村さんは誰に対しても優しく怒った姿を見たことがありません。
ステロイドユーザーには心理的な副作用として、怒りのコントロールが効かなくなる「ロイドレイジという症状がありますが、私が4年間見た限り北村さんにはそのような症状はありませんでした。

ドーピングは心身を蝕み、短命に終わる選手やYouTuberも少なくありません。
そもそも筋トレ自体が健康に良くないと指摘する食養生の専門家も多くいます。
ドーピングチェックのない競技者だと使用しないと勝てないという理由で使うようですが、健康維持レベルでは絶対に使用しないことをお勧めします。

ホッペ太郎ほんちゃんさんによると、愛知県ボディービル大会で優勝していた当時、お米と味噌で仕上げており、プロテインやカーボドリンクも飲んでいなかったそうです。
チートデーも作らないと言います。

私もお米と味噌を中心に、緩い四毒抜きの食事で筋トレを継続しています。
病気や怪我に無縁で運動を継続するためには、薬物やサプリに頼らず、毎日の食事を和食に切り替えることが重要だと考えています。

健康的に長期に筋トレを続けようとする場合、お米と味噌汁を中心とした和食(四毒抜き)で十分なようです。
コンテストビルダーではない限りプロテイン、アミノ酸も不要です。
もし体をでかくしたいならお米の量を増やしおかずを減らしていくことで対応できます。
ほっぺさんのYouTubeやお米チャンネルの柏原先生の動画もぜひ参考にしてください。


マッスル北村さんのプロフィール

北村 克己(きたむら かつみ)
1960年10月6日 – 2000年8月3日(39歳没)
日本のボディビルダー、タレント。

出身校:
東京学芸大学教育学部附属高等学校卒業
東京大学理科二類 中退
東京医科歯科大学 医学部医学科 中退

入賞歴:
1985年:IFBB ミスターアジア90kg以下級(ライトヘビー級)優勝
1990年:WABBA 世界選手権3位
1999年:WABBA 太平洋世界選手権 総合優勝
1999年:NPC トーナメント・オブ・チャンピオンズ(ヘビー級)3位


関連施設の紹介

  • スポーティングワールド レヴァン練馬(現:ティップネス)
    • 丸紅が運営していた、東武東上線東武練馬駅近くにあった総合スポーツクラブ。
    • ゴールドジムがまだなかった当時、関東一の設備を誇っていました。
    • その後ティップネスが買収し、現在も営業中です。
    • ボディービル連盟には加盟しておらず、レヴァンで筋トレするコンテストビルダーは西武アスレチックビックボックスに所属して大会に出場していました。
  • ティップトップ大山
    • 東武東上線大山駅ハッピーロードに存在していた、パチンコ大田グループが運営していた総合スポーツクラブ。
    • コナミスポーツに買収されましたが、2024年8月31日に営業を終了しました。

マッスル北村とレヴァン練馬、伝説が生まれた場所

  • マッスル北村との出会いは19歳の頃で、スポーツクラブのアルバイトがきっかけだった
  • 自己流だった筋トレが、レヴァンで本格的な理論に変わった
  • レヴァンは、マッスル北村を筆頭につわもの揃いの環境だった
  • アルバイト時代、北村は周囲から「あんな体」と指差される存在だった
  • 北村のオフシーズン中の体重は120kg程度で、団子丸な体形だった
  • 低賃金でも筋トレのために働いていたが、会員になって筋トレに専念することになった
  • 消防士のO倉さんから、消防士としての働き方や筋トレの自由さについて助言があった
  • 短期間、鶴瀬のエスパルでも筋トレをしたが、ドラッグ使用の問題も存在した
  • 鍼灸師に転身するきっかけも、鍼灸師の会員さんからのアドバイスだった
  • オアシス新宿で勤務中、横浜中華街I間事件の衝撃的なニュースを知った
  • レヴァン練馬店は経営が思わしくなく、「100kg以上のベンチプレス禁止」の奇策を打ち出した
  • 多くの会員がゴールドジムノース東京に移籍し、レヴァン練馬は事実上閉鎖された
  • 治療院開設準備のため、1996年6月頃に筋トレを一時中断した
  • 北村さんの逝去をH越さんから聞き、大きな衝撃を受けた
  • 北村さんは誰に対しても優しく、伝説的なボディービルダーとして記憶されている

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